5/4 橋下氏ツイッター「桜宮高校体罰事案、外部観察チーム報告書とメディアの憲法96条改正論議について・・・」

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(引用)
桜宮高校体罰事案に関して、外部観察チームに調査をさせていたが、その報告書が上がってきた。今の教育員会制度の問題点が浮き彫りになり、そして自民党の教育委員会改革では不十分であることも明らかになった。教育の政治的中立性の名の下に制度設計された今の教育委員会制度は欠陥だらけ。

以前から指摘していたように、ガバナンスが効かない組織になっている。委員会と学校との関係は、助言指導の関係。責任者があいまいな無責任体質。今回の桜宮高校の体罰事案についても、教育指導主事が学校長に確認を入れた。その際学校長は体罰事案が発覚することを恐れ調査を拒否した。

教育指導主事も教員。学校長との個人的な関係があり、学校長の調査拒否を認めた。学校長は声を荒げて調査を拒否したと言う。教育指導主事と学校長の関係は何なんだ?もし教育委員会に責任があるなら、教育指導主事と学校長との関係は指揮命令関係になる。学校長は、拒否などできない。

学校長が拒否できるなら、それは学校長に全責任があることになるが、学校長は全責任を負えない。人事権も予算権もない。結局、今回は体罰事案を隠すためだけに、学校長が調査を拒否し、教育指導主事もそれを認めたことになる。この一連の行為によって当該顧問の体罰事案は隠ぺいされ、最後自殺を招いた

自民党の改革案は教育長に責任を一元化することをメインとしているが、教育委員会制度そのものを抜本的に改めなければならない。教委と学校の助言指導関係がと言うものが最悪だ。権限と責任を明確にすれば、指揮命令関係になる。常に教委が指揮命令するわけにはいかない。(続く…)

(続き)
ゆえに学校長に権限と責任を負わせる方向で。ただしここと言うときには、教委が指揮命令。教委は全体の水準を測り、当該学校が水準に著しく劣るような場合に介入することになるだろう。そのためには校長人事が肝要。責任を負えるマネジメント能力のある者を校長に就けなければならない。

いずれにせよ、教育委員会制度を絶対的に守ろうとしていた朝日や毎日、そして学者連中は猛反省すべきだ。

さ、憲法論議が盛り上がってきた。どこもかしこも憲法、憲法。僕が記憶する中では、ここまで憲法論議が盛り上がったことは以前にはない。非常に良いことだ。産経などもぶっ飛んだ憲法案を出して中曽根さんは賛成を表明。僕は反対。いやー、本当に良いことだ。憲法こそが国を形作っている根本なんだから

しかしね、憲法学者の質も悪くなったものだ。小難しいことを並べるけども、小難しいことを並べすぎて、自分の論理の自己矛盾に気付いていない。これは憲法論ではなくて、単純な論理学、いや論理学とも言えない話なんだけどもね。まず96条改正は、改正手続きを「緩和」するのではない。

憲法改正について、国民投票で決着を付けましょうよということ。だってここまで憲法の議論が盛り上がって、色んな意見が出てくる。今のままだと、結局国会議員による発議すらできずに、国民投票まで行かない。何のための議論だかさっぱり分からない。

なぜ今回、ここまで憲法の議論が盛り上がっているのか。それは改正される可能性が高まったから、皆必死になり始めた。朝日、毎日、護憲派と呼ばれる人たちが必死になっている。これはこれで良いこと。ただ最後は国民投票で決着させてもらわないと。日本国憲法の憲法改正手続きの特徴は国民投票だ。

衆参3分の2による発議を2分の1にしたところで、軟性憲法(法律と同じ手続きで変えられる)になるわけではない。国民投票が必要なので、ここが法律と決定的に異なる。衆参3分の2の発議要件を2分の1にしても、硬性憲法であることに間違いない。護憲派と呼ばれる人達は国民投票を軽視している

朝日新聞の石川健治さん(憲法学者)のオピニオン(※下記参照)は凄かった。小難しいことを言い過ぎて、肝心要の論理が破たんしてしまっている典型。今の憲法学者って皆こんなのかな。朝日が統治の最重要モデルとする5人や10人の人間の単位では、対話や直接民主制が成り立つのだろう。こんなの夢物語。

そういえば、内田樹氏も、自らが主宰する合気道道場こそが、これからの公のモデルになると公言していたな。日本は1億2000万人の国。ありとあらゆる課題について国民全員で対話して結論を出すなんて、そんなの無理。だから選挙で代表者を選らんで代表者で議論してもらうことにした(間接民主制)。

こんなのは憲法前文を引くまでもなく当たり前のこと。ただ、あえて日本国憲法は憲法改正については国民投票に付すことにした。これは重すぎるほど重い。世界各国の中でも、国民投票まで付す国は少ない。そしてフランスやイタリアは、国民投票を回避できるのは、議員による特別多数決があった場合。

96条改正反対派の主張の根幹は、国民投票は信じられないと言うこと。ところが、フランスもイタリアも、国民投票は議員による特別多数決に匹敵するもの。すなわち国民投票で決定すれば、議員による特別多数決は要らない。それほど国民投票で決めると言うのは重いことだし、それこそ国民主権そのもの。

石川さんは、なんと国民投票を軽く扱っていることか。わざわざ日本国憲法は憲法改正について国民投票を求めているのに、それでもまだ国会議員による議論が重要だと言っている。憲法改正においては、国会は国民投票に出す発議の役割。案を作る役割。普段、政治家は官僚の作った案について決定する役割。

石川さんは、政治家の政治討論の実際をご存知ないようだ。政治家が行政的な議論までできるわけがない。政治行政の議論には2つある。制度の中身の議論と、選択肢の中から決定する議論。日本の政治の場では、まだきっちりと整理されていないが、本来は政治的討論は決定のための議論だ。

ところが憲法改正になると、政治家は国民に対して案を作る役割になる。そして決定は国民が行う。ゆえに、政治家は国民に対して案を出さなければならない。今の96条では、政治家が国民に対して、憲法改正案を出せない。だから変える必要がある。国民投票がきちんとできるようにしなければならないのだ

そして朝日や毎日は論理破綻。原発政策をはじめ、様々な政治課題で朝日や毎日は市民運動を重視。市民運動によるデモによって政治をしろと言う。議員よりも、市民の声を聞けと。その場合には、その市民の声はいっときの熱狂的な声だとは言わない。信用できない声だとは言わない。

ところが憲法改正のときには、国民投票は危険だと言う。完全に結論先にありきのご都合主義。原発政策は、市民運動の声の結論を採用したい。憲法改正においては、国民投票の声を採用したくない。朝日や毎日は、自分の採りたい結論に合わせて、市民運動を重視したり、国民投票を軽視したりする。

これは違う。日本の国の統治の建前は、原則間接民主制。議員による討議によって決定する。市民運動に流されてはならない。しかし憲法で定めるような場合には例外的に、直接民主制を発動する。憲法改正の場面においては、まさに直接民主制で国民によって決しようと言うのが日本国憲法の考え方だ。

日本国憲法はその憲法を信じるかどうかも国民の自由とした。憲法尊重擁護義務は国民に課されてない(99条)。そして他の国の人を信じていれば、自らの安全と生存を保持できるとした(前文)。極限まで人間を信頼しているのが日本国憲法だ。ところが石川さんをはじめとする護憲派はどうだ?

朝日や毎日、石川さんをはじめとする護憲派と言われる人たちは、国民投票を信じていない。これは極限まで人間を信頼する日本国憲法の価値に反する。すなわち護憲派と言われる人たちこそ、日本国憲法の価値を守っていない。

3日の毎日新聞で僕の記事と並んだ憲法学者樋口さんの意見(該当記事リンク)にもがっかりした。極限まで人間を信頼しているのが日本国憲法なのに、樋口さんも国民投票を信じていない。そして彼らの決定的な論理矛盾は、これから行う国民投票は信用していないのに、日本国憲法を作った当時の国民は徹底的に信じている。

樋口さんも石川さんも96条改正の憲法学者は皆口を揃えて言う。「後の国民は間違う判断をするかもしれない。ゆえに先の国民が後の国民の力を縛るのが知恵だと。」しかし先の国民がなぜ絶対的に正しい判断をしたと断言できるのか。日本国憲法を制定した当時の国民が間違っている可能性もあるではないか

そして憲法学者は政治の現実を知らない。樋口さんは、「先の民主党への政権交代は間違っていたではないか。国民の判断なんかあてにならない」と。しかし民主党への政権交代が絶対的に間違いなのかどうかはわからない。ただ国民は自民党への政権交代を選択した。これこそが国民の判断だ。

絶対的に正しいかどうかは分からない。それが問題なのではない。国民の選択に委ねると言うことが重要なのだ。民主党がだめだったから国民は自民党に政権交代させた。しかし民主党への政権交代があったからこそ、今の自民党がある。これが国民の判断に委ねる最大のメリットだ。

憲法も同じだ。今議論が盛り上がっている。しかし何が正しいかは分からない。だから国民の判断に委ねる。仮に行き過ぎた改正があるかもしれない。しかし、その場合には次の改正でまた正されるはずだ。樋口さんも、石川さんも一回の改正しか考えていないのではないだろうか?

何が正しいか分からないが、国民投票に委ねることで、正しいものに近づいていくだろう。これが国民投票を重視する僕の立場。ところが国民投票を軽視する人たちは、自分の価値観が絶対的に正しいと確信している。他の価値観を全否定。これこそ、日本国憲法の価値相対主義に反する。

護憲派と呼ばれる人たちは、自分の考えが絶対的に正しいと確信している。まさに価値絶対主義。僕は、自分の考えが正しいとは思うが、絶対的かどうかは分からない。他人の考えも尊重する。しかし決しなければならないので、国民投票で決しましょうと言う考え。これが日本国憲法の価値相対主義だろう。

石川さんは、「勝つためのルール変更」選手はできぬと、よく分からない喩を用いている。議員が選手なのだろう。しかし憲法改正においては、国民がFIFAだ。国民はルールを変えることができる。96条改正は、国民が自ら憲法を変えることができるようにする改正だ。議員による憲法改正ではない。

そして石川さんの究極の論理のドツボは憲法改正権について。妄想的論理で96条は変えられないと結論付けている。ここでの前提は国会議員が憲法改正権者であると言うこと。国民が憲法改正権者とするだけで、石川さんの論理は崩れていく。そんなうすっぺらい論理。

憲法制定権は国民主権においては、国民にある。そして一度憲法を制定すると、憲法制定権は憲法改正権として憲法の中に溶け込む。憲法改正権者はあくまでも国民。そうであれば憲法96条も国民が変えることができる。それを端的に表したのが96条の国民投票。石川さん、そんなに小難しく考えないで。

石川さんの論理で言ったら、そもそも日本国憲法の存在根拠もなくなりますよ。日本国憲法は大日本帝国憲法の改正手続きで行われたもの。貴族院での審議も行われた。大日本帝国憲法が日本国憲法の産みの親にはなれないはず。大日本帝国憲法を廃棄し、憲法起草会議によって日本国憲法を作るべきだった。

96条を改正することが立憲国家に対する反逆だとか革命だとか、ここまで妄想が広がると凄すぎる。政治家と国民を分断する朝日、毎日のロジックの真骨頂。僕は国政政党の代表だけど、普通の国民だと思っている。今もリビングでツイッターを打って、後ろの食卓で妻と子供がテレビを見ながら喋ってる。

それでも僕は権力者ならば、普通の国民と区別されても良い。しかし、憲法改正の主役は権力者ではない。憲法改正の主役は権力者でない国民そのものだ。国民が憲法を変えると言うのに、何が立憲国家への反逆なのか、何が革命なのか。日本国民はそんなバカじゃない。

朝日や、毎日、そして石川さんや、樋口さんのような人たちが恐ろしい。それは自分の考えこそが絶対的に正しく、国民は正しい判断ができないと言う、衆愚政治論を持ち出す面々。日本国憲法は朝日や毎日、憲法学者だけを信じているのではない。国民全てを信じている。だから憲法改正は国民投票に付す。

朝日、毎日、石川さん、樋口さん、その他護憲派と呼ばれる人たちへ。もっと国民を信用しなさい。日本国憲法の価値を守って下さい。あなた方よりも、国民の方が信頼できますよ。民主党への政権交代から自民党への政権交代。確実に政治は良くなった。これも国民がやったんだ。

朝日や、毎日がどれだけのことを書いても、石川さんや樋口さんがどれだけの憲法論を唱えても、この国民の力にはかなわない。96条改正は、改正の要件を「緩和」するのではない。もっと国民を信じて、国民の力で憲法を良くしていくために、国民投票を活用するための改正だ。

96条改正反対派からは、衆参2分の1の発議要件になれば、むちゃな改正案がどんどん出てくると批判する。これも現実の政治を分かっていない。2分の1を獲得した勢力が無茶な改正案をどんどん出したら、次の選挙で入れ替えられますよ。それが選挙。

選挙が機能する以上、国会議員も無茶な改正案を出せない。国民も仮に間違ったなと思ったら、次にまた改めれば良い。敗戦直後に作られた憲法を絶対的な存在として崇め奉るより、国民の判断に委ねならが、より良いものにしていくことの方がベターだ。国民投票は物凄く重い。

産経新聞の憲法案は怖い。このような憲法観だと、30日の夕刊3面、「目覚めよ、沖縄の世論」(該当記事リンク)となってしまうだろう。産経は国家を前面に出し過ぎ。この国家は、たやすく永田町と霞が関の公権力に結びつく。だいたい国を守るのは国民ではなく政治家、官僚と自衛隊だ。

僕は4月30日から2日まで沖縄に行ってきたけど、あの悲惨な沖縄地上戦を招き、沖縄を本土の捨て石としたのは、まさに日本政府だったじゃないか。国家なんてそんな神的なものではない。普通のおっさん、おばさんが運営しているんだ。だから間違いも犯す。

国家を神格化してはならない。日本の伝統や文化、隣人、地域コミュニティーは大切にしなければならないし、これは守らなければならない。しかしそれを単純に国家と言うのは違う。産経の言うところの国家は主体性を持った国家であり、これは公権力とたやすく結びつく。

沖縄の米軍基地は必要不可欠だ。普天間基地も辺野古移設しかない。日本のために、沖縄県民の皆さんにお願いせざるを得ない。しかしその際、国家を前面に出すと、産経的主張になる。違う。抽象的な国家を出さず、個別具体的の私、僕、子ども、孫を出せば良い。

私、僕、子ども、孫、隣人の安全のために、沖縄県民の皆さんにお願いする。国家を前面に出すと、国民一人一人の沖縄への感謝の念が薄れる。それで産経のような主張になる。国民一人一人が、自分の安全のために、沖縄が負担を被ってくるていると言うことを意識する。それがひいては日本の安全保障になる

だから僕は産経の憲法案には反対だ。産経の憲法案では、沖縄への感謝の念すら薄れる。
(橋下氏 twilogより)

(引用)
(寄稿 憲法はいま)96条改正という「革命」 憲法学者・石川健治

 日本国憲法のもとに、立法権と行政権と司法権があり、国会と内閣と裁判所がある。それは誰でも知っている。たとえば立法権は国会に分配され、国会は立法府として単純多数決(つまりは過半数の賛成)で法律をつくっている。これも常識だろう。ところが、それらとは別に、憲法改正権という、もうひとつの「権力」がある。このことについて、深く考える機会はなかったかもしれない。

 国民主権をかかげる憲法では、憲法改正権も、立法府に分配されることが少なくない。立法府は「全国民の代表」とされるからだ。そして、憲法改正に関して、立法府に特別多数決(たとえば3分の2の賛成)を要求する定めをおくと、その憲法は硬性憲法に分類される。ドイツ連邦共和国の憲法は、連邦制特有の事情もあって戦後60回近く改正されていることで有名だが、上下両院の3分の2の賛成が必要であり、典型的な硬性憲法である。

 この点、日本国憲法の場合、憲法改正の発議に関して、通常の立法手続きよりも高いハードル(各議院の総議員の3分の2以上の賛成)が課せられている。このハードルの高さゆえに、日本国憲法は硬性憲法に分類されるわけである。これに対して、憲法改正の場合にも、立法府が単純多数決で済ませてしまう憲法がある。これが軟性憲法であり、そこでは、憲法と法律を区別する意味が、事実上なくなってしまう。

 日本国憲法の改正手続きに特徴があるとすれば、国会が憲法改正を企てた際には、必ずレファレンダム(国民投票)にかけることを求めている点にある(96条)。憲法前文には、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあることから、憲法改正権も国会に分配されてよさそうなものだが、憲法はそうはしなかった。これは、国会が特定の地方自治体を狙い撃ちにする法律をつくった場合に備えて、必ずレファレンダム(この場合は住民投票)にかけなくてはならない仕組みにしたのと、同様の発想である(95条)。

 しかし、憲法改正について実質的な審議を行うのは、国会であることに、変わりがない。硬性憲法であることの本質は、国会に課せられたハードルの高さにこそある。

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 いきなり堅苦しい書き出しになってしまったが、大して難しい話ではないと思う。ところが、現在の日本政治は、こうした当たり前の論理の筋道を追おうとはせず、いかなる立場の政治家にも要求されるはずの「政治の矩(のり)」を、踏み外そうとしている。96条を改正して、国会のハードルを通常の立法と同様の単純多数決に下げてしまおう、という議論が、時の内閣総理大臣によって公言され、政権与党や有力政党がそれを公約として参院選を戦おうとしているのである。

 これは真に戦慄(せんりつ)すべき事態だといわなくてはならない。その主張の背後に見え隠れする、将来の憲法9条改正論に対して、ではない。議論の筋道を追うことを軽視する、その反知性主義に対して、である。

 第一に、良き民主政治にとって、「代表」は必要不可欠か、というのは真剣に問う必要のある問いである。もちろん賛否両論であろう。

 有権者は日頃自分自身の利益を追求するので手いっぱいだから、国民全体の立場からしっかりと議論をし、公共の利益を追求する「代表」なしには、良き民主政治にはならない。これが、日本国憲法が採用する、間接民主制(代表民主制)の論理である。中央政治・地方政治を問わず、旧来の自民党政治家に、「代表」を飛ばして直接「民意」に訴える、国民投票や住民投票の導入に懐疑的なタイプの人が多かったのは、その意味では首尾一貫していた。そして、憲法改正手続きから国民投票をはずすことを主張するならば、その当否は別として、議会政治家として筋が通っている。

 ところが、今回の改憲提案では、直接「民意」に訴えるという名目で、議会側のハードルを下げ、しゃにむに国民投票による単純多数決に丸投げしようとしている。議会政治家としての矜持(きょうじ)が問われよう。衆愚政治に陥らない民主政治とは何であるかを、真摯(しんし)に議論する必要がある。

 そして、目下の改憲提案に従い、改正手続きのすべての局面を単純多数決にそろえるとすると、第二に、これまで単純多数ではなく特別多数による議決を求めてきたのはなぜか、を問わなくてはならなくなる。もちろん、単純多数決が本当に民主的な決定だと言い切れるのか、疑いがあったからである。

 構成員全員が納得して従える、正しい意味で民主的な決定は、全員一致による決定であろう。徹底的に議論し、異論があるなら説得をする。内閣は、戦前も戦後も、したがって今日も、この方式で意思決定をしているのである。しかし、このやり方は、決定に時間がかかる。また、メンバーにいわば同調圧力がかかり、異論をもつものは、「窒息」させられるか、脱退を余儀なくされる。

 満洲事変の後、国際連盟から日本が脱退をせざるを得なかったのは、連盟が全員一致方式をとっていたからである。松岡洋右全権代表が議場から退場するシーンは有名であろう。最近では、鳩山連立内閣で異論を唱えた社民党党首、福島瑞穂氏の例が、記憶に新しい。はじめは強い同調の圧力がかかり、途中からは排除の圧力がかかった。日本国憲法は、戦前の反省に基づき、内閣の決定力を補うために、異論をもつ閣僚を罷免(ひめん)する権限を内閣総理大臣に与えている。当時の鳩山由紀夫首相は、福島氏を罷免することによって、内閣の決定力を回復したのであった。

 そこで、決定力の強い多数決方式が、検討されることになる。あたま数をかぞえるだけですぐに結論を出せる一方、異論をもつものが脱退しなくてよいという利点がある。しかし、その反面で、多数決は、少数者の抑圧を、原理的に予定している。多数決をするたびに、半数近くの者が抑圧され、服従を強いられている。それが本当に民主的な決定だといえるのか。これは古くからある難問であり、「強行採決」が非難される理由はそこにある。だからこそ、できるだけ丁寧に議論をし、多数派と少数派はできるだけ歩み寄り、お互いが納得できるコンセンサスをめざすのである。

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 特別多数決も、多数決には違いないが、単純多数決に比べ、討論とコンセンサスの制度的条件を提供して、民主的決定の質を高めると同時に、異論の余地も残せる利点がある。その分、時間的なコストは、覚悟の上である。具体的には、日本国憲法はつぎの五つの局面を想定している。衆参それぞれの議院で行われる、議員の資格を争う裁判で、議席を失わせる結論を出す場合。会議を非公開(秘密会)にする場合。院内の秩序をみだした議員に対して、除名の議決をする場合。衆参両院で結論が食い違った法律案を、衆議院で再議決して国会全体の議決とする場合。そして、憲法改正の発議をする場合。これらのうち、はじめの四つについては、「出席議員」の3分の2で議決できるのに対して、憲法は、憲法改正についてだけは、さらに「総議員」の3分の2にハードルを上げている。

 それは、五つの局面のうち、憲法改正の発議が一番重たい問題であるからにほかならない。その際、衆議院だけでなく参議院の賛成が要求されているのも、五つの局面のうち憲法改正が格段に重要であり、決定に熟議を要するからである。これに対して、現在高唱されている憲法96条改正論は、ほかの四つの局面は放置したまま、憲法改正についてだけ、通常の立法なみの単純多数決にしようというのである。問題の軽重に照らして、いかに内容のチグハグな提案であるかは、これだけでも明らかであろう。

 それだけではない。96条改正を96条によって根拠付けるのは論理的に不可能だということが、第三の、そして最大の問題である。それは、硬性憲法を軟性憲法にする場合であっても、軟性憲法を硬性憲法にする場合であっても、変わりがない。

 たとえば、法律が法律として存在するのは、何故か。法律を制定する資格や手続きを定める規範が、論理的に先行して存在するからである。同様に、立法府である国会が、憲法改正を発議する資格をも得ているのは、憲法改正手続きを定めた96条が、論理的に先行しているからである。特別多数決による発議に加えて、国民投票による承認が必要、と定めたのも96条である。憲法改正が憲法改正として存在し得るとすれば、96条が論理的に先行して存在し、96条によって改正資格を与えられたものが、96条の改正手続きに基づいて憲法改正を行った結果である。

    ■     ■

 それでは、憲法改正条項たる96条を改正する権限は、何に根拠があり、誰に与えられているのだろうか。これが、現下の争点である。結論からいえば、憲法改正権者に、改正手続きを争う資格を与える規定を、憲法の中に見いだすことはできない。それは、サッカーのプレーヤーが、オフサイドのルールを変更する資格をもたないのと同じである。

 フォワード偏重のチームが優勝したければ、攻撃を阻むオフサイド・ルールを変更するのではなく、総合的なチーム力の強化を図るべきであろう。それでも、「ゲームのルール」それ自体を変更してまで勝利しようとするのであれば、それは、サッカーというゲームそのものに対する、反逆である。

 同様に、憲法改正条項を改正することは、憲法改正条項に先行する存在を打ち倒す行為である。打ち倒されるのは、憲法の根本をなす上位の規範であるか、それとも憲法制定者としての国民そのものかは、意見がわかれる。だが、いずれにせよ、立憲国家としての日本の根幹に対する、反逆であり「革命」にほかならない。打ち倒そうとしているのは、内閣総理大臣をはじめ多数の国会議員である。これは、立憲主義のゲームに参加している限り、護憲・改憲の立場の相違を超えて、協働して抑止されるべき事態であろう。

 なかなか憲法改正が実現しないので、からめ手から攻めているつもりかもしれないが、目の前に立ちはだかるのは、憲法秩序のなかで最も高い城壁である。憲法96条改正論が、それに気がついていないとすれば、そのこと自体、戦慄すべきことだといわざるを得ない。

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 いしかわけんじ 62年生まれ。旧東京都立大学教授を経て、03年から東京大学教授。著書に「自由と特権の距離 カール・シュミット『制度体保障』論・再考」など。 (朝日新聞 5/3)

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