1票の格差に関する、4/21に朝日新聞に載ったコラムです。
(引用)
「私」の平等VS.「私たち」の平等 論説主幹・大野博人一票の格差が損ねているのは、だれの平等か、と考えてみる。
あなたが都会の住民だとする。格差が受け入れがたいのは、地方に住む人と同じ一人の国民なのに、「私」の権利が小さくなるのは納得いかないからだろう。
だが、地方からこんな声が上がる。
「私たち中山間地を多く抱えている地域は、人口も東京に吸い取られながら頑張っている。そのうえ口も出すなというのでしょうか」(鳥取県の平井伸治知事)
一票の格差の解消で、自分たちの県の声が都会と比べてますます小さくなることへの懸念。この場合、不平等を感じているのは「私たち」県民だ。
「私」の平等と「私たち」の平等。一票の格差をめぐる都会の人と地方の人の思いは、主語のかたちが違う。
*
衆議院の小選挙区で鳥取県は一票が重い県の代表格だ。議論が0増5減から抜本的な選挙制度改革に進むことについて、平井知事は「小さなところへの配慮を採り入れた制度は多くの国にあるのに」と心配そうだ。
人口の少ない県への気遣いといえる「1人別枠方式」を最高裁は「合理性なし」と否定した。これを廃止すれば、県選出議員は2人から1人に減る。知事の気持ちはわかる。
他方、その同じ県の県議会(定数35)の議席を見てみると――。
九つある選挙区の議席配分が興味深い。ほぼ人口に比例している。人口が全体の33%と最も多い鳥取市からの議席は12で全体の34%、人口が最も少なく全体の2%だけの岩美郡は議席も3%の1という具合。小さな選挙区への「配慮」はない。
しかも国勢調査のたびに見直しているという。一票の格差を作らないという点から見ると模範的だ。「私たち」ではなく「私」の平等を尊重する姿勢に貫かれている。
国政と県政で考え方がちぐはぐだと批判しようというのではない。人はだれだって、あるときは「私」として、あるときは「私たち」として政治や社会に関わったり、不満を感じたりするのではないだろうか。
「私」と「私たち」という似て非なる二つの主体。民主主義では、そのどちらもが平等に扱われることを求めているように見える。
どうすればいいか。
*
答えの一つは、「私」と「私たち」が別々に議論し多数決を採る方法だ。
これを議会制に当てはめると二院制になる。たとえば米国の議会は各州から人口の多寡にかかわらず同じ数の代表が選出される上院と、ほぼ人口比で議席数が割り振られる下院からなる。つまり、上院は「私たち」の平等、下院は「私」の平等が土台といえる。
「日本も二院制なんだから生かせばいい」というのは慶応大学教授の片山善博・前鳥取県知事だ。「衆院は徹底して人口比例。そのかわり、参院は選び方を変え、地域性を重視して人口の少ないところにも目配りする」
平井知事も「衆参それぞれが、どういう代表を国会に送り込んで民主主義を動かすのがいいのか、セットで考えないと」と話す。
民意とは? 代表とは? 二人の問いかけの射程は長い。小さな県の利害を超えて民主主義の土台に迫る。
それに答えようとすると疑問はさらに深まる。たとえば、そもそも「私たち」を都道府県別にくくっていいものかどうか。将来世代への負担が重い課題なのだから、世代別に選挙区を設定しては、という論者もいる。
こんな問いに答えを見つけるのは骨が折れそうだ。けれども、平等の意味について混乱したまま議論を続けていては、目先しか見ない政党の集票戦略の口実に使われるばかりだ。
「私」と「私たち」。そのあんばいをどうするか。そして「私たち」とはだれか。
あなたならどう考えますか。
(朝日新聞 4/21)