4/19 橋下氏ツイッター「自民党は0増5減鼻くそ案で逃げ切ろうとしている・・・」

(引用)
衆議院定数について。自民党が出した0増5減案について野党が審議を拒否している。この点に批判が多い。日本維新の会は、0増5減案についての反対のための審議拒否ではない。これは一票の格差是正のための第一歩として進めるべきだ。しかし0増5減では不十分。

日本維新の会は先の衆議院総選挙の際の公約通り、衆議院定数を3割削減する案をまとめた。0増5減などは鼻くそみたいな改革だ。だから抜本的な改革をしようよと。もちろん抜本的な改革案が与野党ですぐにまとまるわけではないない。でも審議はしましょうよと言うのが日本維新の会だ。

こういう時にはスケジュールを決めるのが段取りとして一番重要。0増5減はまずやりましょう。それと並行して抜本改革案をいついつ頃にまとめましょう。日本維新の会の抜本改革案もテーブルに乗っけましょう。これが物事の進め方だ。ところが自民党は0増5減鼻くそ案だけを決めようと言う。

自民党は0増5減鼻くそ案で逃げ切ろうとしている。だから野党して審議拒否なのだ。審議拒否については批判も多い。0増5減くらいは進めよと。分かっている。一票の格差是正の第一歩として、これくらいの鼻くそ案は進めなければならない。しかし、自民党の逃げ切りは許してはならない。

繰り返すが、今抜本的改革案をまとめるまで0増5減鼻くそ案を認めないと言っているのではない。民主党はどうか知らないが、日本維新の会は、抜本的改革案をまとめるスケジュール感くらいは決めましょうよと言っているのだ。0増5減鼻くそ案で終わらせてはならない。重要なのは段取り、スケジュール感 (続く…)

(続き)
政治は自分たちが嫌なことに関してはだらだらとやる。だから政治を進めるためには期限が重要。定数削減は政治家の最も嫌がること。だって自分たちの身分がなくなる話だから。だからこそ期限を切らなければならない。そうでないと0増5減鼻くそ案で終わってしまう。

抜本改革のスケジュール感だけで良いのだ。なぜ自民党はそれすら協議しようとしないのだ。野党しては審議拒否しか抵抗の姿勢を示すことができない。もちろん批判されることは織り込み済み。批判されれば、このように反論すれば良い。一番いけないのは、問題がないかのごとく進めること。

0増5減鼻くそ案に反対のための審議拒否ではない。最後は賛成する。しかし抜本改革案を審議するスケジュール感くらい決めようじゃないか。今、抜本改革案をまとめようと言っているのではない。スケジュール感だ。これくらいも決めないのであれば、自民党は0増5減鼻くそ案逃げ切り作戦だ。これはNO

さて、朝日と読売が憲法96条改正について激しく議論し始めた。いいじゃないの!!産経も、毎日も加わってよ。僕のこれまでの教育改革や公務員労働組合に対する対処法などについて、ほとんどの有識者は反対の大合唱。そんな中で慶応大の小林節教授(憲法)だけが、論理的にエールを送って下さっていた

小林節教授とは面識はないが、様々な媒体を通じて、学者からは批判の嵐だった、教育改革や公務員労働組合に対する対処法について賛意を示して下さった。その小林教授が憲法96条改正には反対だと言う。小林教授は改憲派なのに96条改正は邪道だと。俄然憲法論が盛り上がってきた。

ちょうど憲法記念日も近い。憲法なんかこれまで国民的議論の対象にはならなかった。新聞社の皆さん、激しくお願いしますよ!さて、朝日の憲法改正観の矛盾。細かな技術的な論ではなく、朝日は哲学そのものが矛盾している。朝日は市民運動を最重要視しているはずだ。

政治よりも市民運動。原発政策もデモの声で決めろ。議員による間接民主制よりも、住民投票の直接民主制を信じろ。世の中は小さなコミュニティーが絶対的価値。全て対話で決めろ。これはこれで一つの哲学だろう。そうであれば憲法改正についても、国民投票を信じるべきだ。

これだけ市民運動や住民投票を信じる朝日が、こと憲法改正になると国民投票を信じない。これは朝日は自分の価値観を絶対的に正しいものとして、手段を都合よく選んでいるからだ。原発政策については市民運動を利用する。憲法は変えられないように国民投票を封印する。究極のご都合主義だ。

普通の政策は議員による代議制民主主義、間接民主制を尊重する。しかし憲法改正と言う国民主権の発現そのものに関しては国民投票を尊重する。これが僕の政治哲学だ。朝日には哲学のかけらもない。

このような朝日の間違いはどこから来ているか。1つは自分たちの価値観が絶対的に正しいと信じていること。2つは社会制度は不変のものと信じていること。僕は価値観には様々なものがあると言うのが前提。だから選挙や国民投票で最後は決めざるを得ないと考える。朝日は自分が絶対的な正義。

朝日は今の日本国憲法の価値を絶対と考え、とにかく憲法改正の余地を1ミリでも認めたくない。ところが、現行憲法は価値相対主義。国民の間にはあらゆる価値観があることを前提としている。何が正しいかは国民が決めると言うのが現行憲法の建前だ。朝日は現行憲法をもっと勉強しないと。

2つめだが、4月14日の朝日社説(※この引用の後に掲載) 「最高裁長官は何をした」を読んで、なるほどな~と思った。朝日の体質って、純粋な学生集団なんだなって。確かに現行憲法は司法権の独立を定めている。ゆえに砂川事件判決に関して、最高裁長官がアメリカ側に配慮したのであればそれは問題だ。

しかし当時の時代背景をしっかりと考えれば、こんな学生論調にはならないだろう。現行憲法が施行されたのが1947年。司法権の完全な独立が規定された。それまでは大日本帝国憲法下の司法権だ。これは革命に近い。砂川事件が起きたのがそれからわずか10年。

わずか10年で、完璧に国家体制が変わるなんてあり得ないだろう。裁判官の価値観だって、徐々に現行憲法に合わせたものになってきたはずだ。司法も、僕らが憲法を勉強したときには、消極司法だった。しかし、今や、一票の格差是正訴訟にしても水俣病訴訟にしても司法が積極的になった。

僕は積極司法を歓迎するが、しかしそれは時間がかかってのこと。今の時代、最高裁長官がアメリカ側に配慮したと言うのであれば大問題だが、現行憲法施行から10年、敗戦から12年くらいの状況で、そりゃ最高裁の長官もアメリカ側に配慮することもあるでしょ。裁判官だって人間だ。

今の時代においては、司法権の独立は徹底して守らなければならない。朝日の社説にあるようなことがあれば、これは大問題だ。しかし1957年当時はどうだったのか。そのときの憲法価値観の実現度をもっと冷静に分析しないと。ほんと朝日って、学生の青臭い議論と同じなんだよね。

人間なんて神様じゃないんだから間違いも犯すでしょう。憲法だってしょせん人間が作ったものだ。価値観だって様々なものがある。何が正しいのか分からない。だから最後は選挙で決めざるを得ないし、最後は国民投票だ。偉そうな有識者はそれを衆愚だと言うが、お前は何様なんだって!

選挙が全てでないと選挙を軽視し、国民投票を重視しない人たちは、自分が絶対的に正しいと言う自信家ばかり。インテリに多いね。国民の判断に委ねるのは危険だ!衆愚政治だ!と言っている奴の面構えこそよっぽど衆愚ね。朝日よ、もっと国民を信じなさい。心配しなくてもダメな改正案は否決されるよ。

ただ自民党や読売新聞もいただけない。改正の実行プロセスを全く想像していない。一気に全面改正なんて絶対無理だ。全面改正で国民投票は成立しない。改正は、一部改正でやっていくしかない。全面改正私案を披露するのは良いが、それは自己満足。もっと現実的な改正プロセスを考えないと。
(橋下氏 twilogより)

(引用)
米軍と憲法―最高裁長官は何をした

 戦争の放棄を定める憲法9条のもとでも米軍が駐留できる。その解釈を与えた最高裁の判決の裏に、何があったのか。

 半世紀前の1957年。米軍旧立川基地の拡張に反対する学生ら7人が基地内に入り、日米安保条約にもとづく刑事特別法違反に問われた。「砂川事件」である。

 東京地裁は59年3月に、米軍駐留は憲法9条に違反するとして7人に無罪を言い渡した。

 判決が確定すれば、米軍を取り巻く状況は一変する。審理は高裁をとばして最高裁にまわった。交渉中の安保条約改定を前にこの裁判はいつ、どう決着するか。日米両政府は注視した。

 このときの駐日米大使マッカーサー2世から米政府にあてた公電を米公文書館が公開した。

 当時の田中耕太郎最高裁長官と大使ら米外交官との、非公式なやりとりを伝えている。

 公電によると長官は、米側に判決の時期と、世論を割りかねない少数意見を避け、15判事の全員一致で判決したいという考えなどを伝えたという。

 憲法上の争点を地裁判事が判断したのは不適切だった、との発言も引用されている。米大使は自らの印象として「長官は地裁判決は覆されるだろうと思っている」と記した。

 その言葉どおり、最高裁は12月に地裁判決を全員一致で覆した。翌日の公電は「全員一致の判決は、裁判長の手腕と政治力に負うところがすこぶる大きい」と長官をたたえた。

 忘れてはいけないのが、この最高裁判決の重みだ。

 日米安保条約のような高度に政治的な問題に司法判断を下さないという「統治行為論」を示し、その後の在日米軍がからむ訴訟で用いられ、いまも拘束力をもち続けている。

 外交公電がつねに正しいとは限らない。発した側の外交官に都合のよい記載になっていると疑われる場合もある。

 だが一国の司法の長が裁判の利害関係者と会い、判決の行方をほのめかしたという記録は、放っておけない。

 司法の独立は守られたか。

 評議は適切に行われたのか。

 田中長官は74年に亡くなっている。それでも、当時の行動や発言の記録の開示を、市民団体が最高裁に求めている。もっともな要請だ。

 すでに公開された公文書は、上訴や立証の方法に至るまで、外務省と米側が密接にやりとりしていたことも伝える。

 戦後史をつらぬく司法の正統性の問題だ。最高裁と政府は疑念にこたえなくてはならない。 (朝日新聞 4/14)

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