歴史で読みとく都構想、大阪の「府市合わせ(不幸せ)」 世紀を超えた対立(日経)

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これはいい記事ですね。
大阪府・市、苦難の歴史が良く分かります。
歴史で読みとく都構想、大阪の「府市合わせ(不幸せ)」 (日経)

(以下引用)
 大阪市を5つの特別区に分割し、大阪府と再編する「大阪都構想」の是非を問う大阪市民の住民投票が17日に迫った。賛成票が反対票を上回れば、政令指定都市が制度創設の1956年以来、初めて廃止されることになる。大阪では長年、都市の枠組みのあり方が議論されてきた。今回の投票が論争に終止符を打つことになるのか。都構想問題を街の歴史からひもといてみたい。
大阪と大都市制度の歴史(画像リンク)

■当初の大阪市、市長も市役所もなし

 大阪市が発足したのは今から126年前の1889年。明治政府による市制施行によって設けられた。当時の人口は現在の2割以下の47万人。面積は約15平方キロメートルで、現在の15分の1程度と狭かった。当時の市域は、大阪城のある現在の中央区などに限られ、後にJR大阪駅(大阪市北区)が設置される場所も、まだ市外だった。

 当初の大阪市の行政制度で最大の特徴は、市長や、独立した市役所が置かれなかったことだ。明治政府が国内の重要拠点であるとして、東京府と大阪府、京都府の「3府」と位置付け、他県と区別したためだ。

 他の市は市議会が推薦した候補から内務大臣が市長を選任していたのに対し、東京、大阪、京都の3市は、内務大臣が選任した府知事が市長を兼ねる「市制特例」が適用されたのだ。

 大阪市には東、西、南、北の4区が置かれ、区役所も設けられたものの、市の行政組織は府庁の中に置かれ、市役所庁舎はなかった。

 自治を求める市民の運動が実を結び、市制特例が廃止されたのは9年後の1898年。この年、市議会議員による初の市長選挙が行われ、初代市長に田村太兵衛市議が選ばれた。以後、市長が行政のかじ取り役を担うことになり、戦前から通して数えると、現在の橋下徹市長は19人目に当たる。

■東京をしのぐ「大大阪」の時代

 江戸時代に「天下の台所」として商都の基盤を築いた大阪市は、周辺の自治体を巻き込んで成長を続けた。1897年に周辺の28町村を編入する第1次市域拡張を実施し、人口約75万人、面積約55平方キロメートルに拡大した。

 1923年、関東大震災が起きると、関東から避難してきた人などで大阪の人口は急増。市は、市街地とその周辺の開発を計画的に進める必要性に迫られ、25年には第2次市域拡張を実施。周辺44町村を編入する大規模な拡張の結果、面積は約181平方キロメートルに達した。人口は211万人に達して東京市を約12万人上回り、全国トップの都市になった。

 人口や面積の拡大に伴い、都市の整備も進められ、33年に梅田―心斎橋間の約3キロメートルで市営地下鉄が開通。37年には、それまで道幅5~6メートルしかなかった御堂筋を幅約44メートルに広げる工事が完成、市の中心部を南北に貫くメーンストリートになった。人口増加や大型インフラ整備により、この時代の大阪市は「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれるほどの経済的発展を遂げた。

 一方、東京では戦時中の43年、東京府と東京市が統合され東京都が誕生。旧市域には特別区が置かれ、今日の「大阪都構想」でモデルとされた統治機構の原型ができあがっている。(続く…)

(続き)
■戦後、揺れた「大都市のかたち」

 戦後の47年5月、人口50万人以上の大都市に府県から独立し、府県と並ぶ権限を付与する「特別市」制度を明記した地方自治法が施行された。大都市は人口や経済規模の面から府県並みの機能を持つとして、府県と市の二重行政の弊害をなくし、都市の成長を加速させる狙いだったとされ、大阪、横浜、名古屋、京都、神戸の5つの大都市の指定が見込まれた。

 しかし、地域の中核都市が域外となってコントロールできなくなることに、府県側の反発は強かった。なかでも対立が激しかったのが大阪府と大阪市だ。特別市移行を目指した市は法施行から2カ月後、「大阪特別市制実施対策本部」を発足させた。啓発ポスターをつくり「市政を合理化する」「手間を省く」など現在の都構想で唱えられるメリットと同様の主張を繰り広げた。一方、府は「府を二分するのは時代に逆行する」などと主張し、強く抵抗した。

 大阪では、府と市がそれぞれに意地を張り合い、協力体制を思うように取れない行政の姿を揶揄(やゆ)して「府市合わせ(不幸せ)」と呼ばれるが、それはこの時点から始まったという指摘もある。

■「妥協の産物」で政令市誕生

 ただ、特別市に移行するには大阪市を特別に指定する法制定が必要だった。憲法95条には「1つの自治体のみに適用される特別法は、住民投票で過半数の同意を得なければ、制定することはできない」と規定しており、住民投票の範囲は市域ではなく府域全体と解釈された。

 住民投票では、市民は賛成、市民以外の府民は反対すると見込まれた。このため56年の地方自治法改正で、特別市は一度も実現しないまま廃止され、代替策として政令指定都市制度が創設された。

 政令市は法律上は「人口50万人以上」が要件だったが、実際には「100万人以上」が目安とされ、同年、特別市移行が想定されていた大阪など5市が政令市に指定された。

 政令市には一般市よりも広い権限が与えられ、民生や都市計画などの事務の一部が府県から移譲された。財源の面でも、業務に見合った地方交付税の配分を受けられるなどのメリットはあった。ただ、あくまで府県内の一都市との位置付けで「妥協の産物」という面は否めない。

 にもかかわらず、政令市制度はその後、人口目安が「70万人以上」に引き下げられるなどして徐々に広がり、現在では、2012年に指定された熊本市まで全国20都市を数えるまでに増えた。

■世紀超えて“最終決着”へ

 政令市指定後の大阪市は、インフラ整備や産業振興などの広域行政を府と別々に担う状況が続いた。もっとも、高度経済成長、1970年の大阪万博開催と経済発展が続く中では、問題が表面化することは少なかった。

 しかし大阪を中心とする関西経済の地盤沈下に加え、バブル期にまい進した大型開発がバブル崩壊後に相次ぎ破綻したことなどから、府市の関係を改善しようとする機運が高まっていった。

 新世紀を迎えた2001年9月、太田房江知事と磯村隆文市長(いずれも当時)が会談し、同年11月には二重行政解消に向けて「新しい大都市自治システム研究会」を発足させた。

 それでも議論は平行線をたどった。府は広域行政機能の一本化を目指したのに対し、市はあくまで市自身の機能を強める改革を主張する構図が続いた。

 こうした中、08年に府知事に就任した橋下徹氏は府政のリストラを主導。一環として、府市の水道事業の統合を当時の平松邦夫市長に持ち掛けたが、協議は決裂した。

 こうした経緯もあって橋下氏は10年、自身が代表となって地域政党「大阪維新の会」を立ち上げた際、都構想を看板政策に掲げ、「府市の二重行政を解消する」と訴えた。維新は11年4月の大阪府議選・市議選で第1党の座を獲得。同年11月の知事・市長のダブル選挙でも勝利し、松井一郎幹事長が知事に、橋下氏が市長に就いた。

 12年には維新の国政進出に先立ち、特別区設置の手続きを定めた大都市地域特別区設置法が成立し、都構想は制度として法的裏付けを得た。これにより絵空事とはいえない段階に至った。

 その後、府市両議会で抵抗する他党との激しい攻防を経ながら15年3月、府市両議会で構想案をまとめた協定書が可決、承認され、住民投票に諮られることが決定した。

■70年前とは逆のプラン、各地の議論の契機に

 都構想は、市の広域行政機能を府に吸い上げる形で「指揮官」を一本化、市を廃止して設置する5つの特別区は身近な住民サービスに特化するという内容だ。

 70年近く前にできなかった特別市制度が広域行政を市に一本化する構想だったのとは逆の形態を目指しているとみることもできる。

 道府県と政令市の役割分担を巡る議論は決して大阪固有の問題ではない。10年には指定都市市長会が、警察権限などを市に移管する「特別自治市」構想を提案。愛知県と名古屋市では「中京都構想」も模索されている。一方、東京都内の特別区からは市への“昇格”を求める声もある。

 国の制度としては、14年の地方自治法改正で、道府県と政令市が話し合う「調整会議」の設置、市の内部組織のままだが区長に予算提案権を持たせるなど行政区よりも権限を広げる「総合区」制度の創設が盛り込まれた。

 5月17日の住民投票は投票率に関係なく成立し、結果は法的拘束力を持つ。大阪のかたちを巡る“最終決戦”は、大都市の統治機構を巡り各地での新たな議論を引き起こす“開幕ベル”の意味合いをも併せ持つことになるかもしれない。(引用終わり)

コメント

  1. 匿名 より:

    本当に大阪市民の皆さん。自分の目先のことばかり考えず、子、孫のことも考えましょうよ。今のままだと大阪は衰退してしまいます。

    維新をずっと応援してきましたが、いつも選挙の1週間前は劣勢で何も手につかなくなります。日経もよい記事を書いてくれました。マスコミの皆さん、もうさんざん維新叩きをしたじゃないですか。将来に夢を持たせてください。もとの大阪に戻ってもよいのですか?

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