2/16 橋下市長ツイッター「裁判所が憲法の番人であるにもかかわらず、内閣法制局が憲法の番人のようにふるまってきた・・・」

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(引用)
安倍首相が集団的自衛権行使の憲法解釈について「憲法解釈の最高責任者は私だ。政府答弁に責任を持つのは内閣法制局長官ではなく選挙で審判を受ける首相だ」とういう国会答弁をした。案の定、批判の嵐。この問題は、まさに日本の統治機構のゆがみを表している。

朝日新聞や毎日新聞は相変わらず、法の支配、立憲主義を持ち出す。しかしこれはキーワードの問題ではない。日本の統治機構、すなわち憲法保障の仕組みがゆがんでいるのだ。これは、まさに日本が占領されていた期間に突貫工事で作られた日本国憲法の問題点そのもの。

日本における憲法問題は、9条を中心に、占領憲法性が論じられてきた。占領期間中に制定された日本国憲法であっても基本的人権の尊重、国民主権などの原理が確立され、日本社会は成熟した民主国家に発展してきた。もちろん安全保障の領域で大きな問題があることは間違いない。

しかしそれよりももっと大きな問題点は、日本の統治機構について日本国憲法が日本の歴史性・国柄等を熟慮した規定になっていないことだ。さらに今の時代の状況に合わなくなってきた。統治機構とは、日本の政治・行政システムの根本。ここにゆがみがあれば、日本の政治・行政はうまく回らない。

安倍首相の発言は、発言自体問題はない。政府答弁に責任を持つのは首相であって、内閣法制局長官ではない。朝日は、内閣法制局長官を、首相の行動を制約できるポジションだと考えているようだが、それは内閣での法解釈の専門家と、国の法の番人を完全に混同している。(続く…)

(引用)
内閣法制局は、内閣における法の専門家。専門家は助言するのが仕事だ。法律上もそうなっている。最後に責任を有するのは法制局ではない。そこまでのポジションではない。しかし、これまでは法制局が最終責任を負うような役割を担ってきた。なぜなら日本国には、法の番人がいないからだ。

立憲主義とは、憲法によって国家権力を縛ることを言う。僕はこれには大賛成だ。そして次に重要なのは、法の番人は誰のか?日本国憲法はここがゆがんでいる。内閣の憲法解釈の責任者は首相だ。当たり前だ。法制局長官でない。では内閣の憲法解釈の是非を判断する国の法の番人は誰か。

世界各国の流れを見ると、本来は、憲法裁判所になる。しかし日本には憲法裁判所がない。これが日本の統治機構の最大のゆがみだ。日本はアメリカ型を採用した。通常裁判所が憲法裁判を担当する。中学の公民でやった付随的審査制。通常裁判の中で憲法適合性が審査される。

アメリカのこの制度についても、アメリカには明確な規定がなかった。判例の中で認められた。そしてアメリカは裁判所に対する不信がなかったこと、また連邦制、大統領制の国であり、大統領から任命される連邦最高裁の裁判官は政治と対峙し得る権威を備えることが可能な国であった。

日本とアメリカはその歴史性も統治システムも全く異なるのに、アメリカ型の付随的審査制を憲法保障の制度として採用した。これが占領時憲法の突貫性の象徴。全く吟味されていない。ヨーロッパなどは、イギリスを除いて憲法裁判所型だ。フランスは裁判所ではなく憲法院。イギリスは議会が憲法の番人だ。

フランスの憲法院やイギリスの議会が憲法の番人になることには様々な問題点が指摘されている。イギリスなどはほんとつい最近に最高裁判所ができた。それまでは議会、貴族院が最高裁判所の機能を担っていた。しかしこれは今から1500年前、605年にできた大法官に遡る歴史性による。

要するに憲法は権力を縛るものだ。だから首相は憲法に注視して自らの思考、態度振る舞いを決めなければならない。そのときに助言を受けるのは内閣法制局だ。しかし、内閣法制局は助言者であって、責任者でもなければ決定権者でもない。教育委員会制度のあいまいさと全く同じ。日本はこの仕組みが好きだ

助言者は責任を持たない。だから決定権もない。当たり前だ。しかし、日本の仕組みはこの責任のない助言者に事実上の決定権を与える。そして責任を伴わない決定が繰り返される。これが日本の統治機構の特徴。教育委員会制度が最たるものだ。教育委員会は学校に対して責任を負わない指導を繰り返す。

元へ。内閣法制局もあくまでも助言者だ。だから内閣は、その助言を受けて、どうするかは自ら決めなければならない。内閣における憲法解釈の責任者は首相である。その解釈の仕方に問題があれば選挙で交代させられるだけだ。そして重要なことは内閣の憲法解釈について口を出せるのは誰なのか、ということ

内閣の憲法解釈が正しいのか間違っているのか、責任を持って決定できるのは、内閣法制局でない。内閣法制局は内閣の一部局にしか過ぎない。まさに国の法の番人は誰か。憲法を保障するのは誰か。それは首相ではない。首相以外の機関。これが憲法保障の担い手の話だ。

朝日新聞や毎日新聞やしたり顔のコメンテーターは、内閣法制局を国の憲法の番人と位置付けているようだ。これは大宝律令以来の官治主義が染み付いているのだろう。イギリスも605年の大法官がずっと染み付いてきた。まあ国の歴史性ということはこういうことだろうが。

そして安倍首相が内閣法制局長官の人事異動をやったときにも朝日や毎日は大騒ぎしていた。その理屈で行けば国家公務員試験を通って、霞が関の人事異動のままに法制局長官に就いた者を、国の憲法の番人と考えよという結論になる。これがいかにおかしいか、世界の憲法裁判所の在り方を一度勉強しなさい。

内閣法制局は、内閣が行政活動をする際の内部チェック機関。あくまでも行政機関の視点。そして助言者に過ぎない。しかし国の憲法の番人となれば、国全体の視点での判断が必要。内閣法制局のメンバーの能力が低いとか言っているのではない。国の憲法の番人とするならその位置づけが必要だということ。

たまたまこれまではイギリスの大法官制度のように不文律で自己抑制をかけてきた。内閣法制局長官人事に政治は関与しない。内閣法制局の判断を絶対とするというのは不文律の世界。それによってあたかも内閣法制局が国の憲法の番人のようになっていたに過ぎない。制度ではなく運用で何とかしていた。

そのことによって制度として規定されていた、裁判所による憲法保障が非常に弱くなった。司法消極主義とも言われ、それが日本の統治機構においてはむしろイイものだとされてきた。そのことによって日本の最高裁判所は違憲判決に極端に謙抑的になっている。

すなわち日本国憲法においては本来は、裁判所が憲法の番人であるにもかかわらず、内閣法制局が憲法の番人のようにふるまってきた。だから裁判所の憲法の番人機能は極端に弱い。この根本を認識せずに、最高裁は違憲判決に臆病だと言ってもこれが日本の統治機構のゆがみなのだから仕方がない。

内閣法制局は、内閣の一機関であり、助言機関。内閣法制局の局長人事はもちろん最後は政治が行う。内閣法制局の助言をもらっても最後に責任をもって決めるのは首相だ。この点安倍首相の答弁に何ら問題はない。ただし首相であれば、もう一歩踏み込んでの答弁が必要だった。

内閣における憲法解釈の最終責任者は首相であるが、国における憲法解釈の最終責任者は首相ではない。本来は裁判所が憲法解釈の最終責任者だが日本は十分に機能していない。これは占領時に突貫的に作られた日本国憲法の欠陥だ。本来は憲法裁判所が必要なところ。

今、わが日本には、十分機能する憲法の番人が存在しない。ゆえに内閣法制局が国の憲法の番人の代わりを担っているようなところもあるので、その助言を十分に尊重する。やはり占領時に突貫的に作られた日本国憲法は問題が多くあり、憲法改正が必要だ。という答弁だったら文句は言われないでしょ。

朝日も毎日もその他コメンテーターも、内閣法制局を日本国の憲法の番人と位置付けるのはどう考えてもおかしいよ。そのような部局ではない。日本国の憲法の番人にするには人選も、内閣からの距離も、きちんと制度設計しなければならない。これが憲法裁判所だ。

占領期に制定された日本国憲法は、アメリカ型の通常裁判所型を導入したがこれが間違い。日本では十分機能しない。通常の裁判所が、政治と対峙して憲法判断を下すことは非常に重荷だ。現実に、非嫡出子の相続分違憲判決や、国政選挙における一票の格差判決において、国会議員は裁判所を見下していた。

そしてそのことにまた、朝日をはじめとするメディアは、三権分立を分かっていない!と批判していた。そうじゃない、そもそも今の日本の統治機構がゆがんでいる。きちんとした三権分立になっていない。政治権力を憲法によって縛る、憲法の番人が存在しない状態なのだ。

イギリスは605年に始まった大法官制度を廃止し、2009年に最高裁判所を設置した。しかし憲法の番人はやはり議会のままだ。日本も憲法の番人をしっかりと作るべきだ。それは通常裁判所ではダメだ。憲法裁判所をしっかりと作る。国会議員に見下されない、憲法裁判所を。

内閣の憲法解釈の最終責任者は首相だ。当たり前だ。しかし日本国において内閣は三権の中の一機関に過ぎない。日本国のおける憲法解釈の最終責任者は内閣ではない。それは憲法裁判所にすべきだ。そうすれば、少数者の利益保護のため、もっと積極的な違憲判決が出るだろう。

憲法裁判所ができれば、一票の格差の判決についても、違憲状態を認めるが、選挙は有効なんていう中途半端な判決にはならない。防衛問題、基地問題等についても統治行為論で逃げない。選挙無効の判決は無責任だと、読売新聞にも批判されないだろう。

圧倒的な民意を基盤とする選挙によって、権力を与えられた政治に対して、通常裁判所の裁判官が対峙できるわけがない。そのような政治に対峙できる憲法の番人をしっかりと作るべきだ。それが憲法裁判所だ。それが日本には存在しないので立憲主義というキーワードが躍るだけ。

そして大宝律令以来の官治主義が染み付いているのか、内閣の一部局の内閣法制局を、国の憲法の番人と見てしまう大手メディアの認識不足。ほんと憲法の勉強が足りな過ぎる。法の支配、立憲主義を全うするための法の番人が日本には存在しない。憲法改正の必要性の最たるものだ。

いえ首相の指名です。国民審査があるのみです。 RT @ktm08281955: @t_ishin 最高裁のトップを決めているのは国民では、(^O^)

通常裁判所を憲法の番人にするのは無理がある。通常の訴訟事件の中でしか憲法適合性の審査がされない。憲法裁判所の特徴は、訴訟事件から離れて、一般的・抽象的に憲法適合性の審査ができることだ。内閣の憲法解釈についても、具体的な事件が発生する前に憲法適合性について審査できる。

すなわち、安倍首相が集団的自衛権行使容認の憲法解釈をしたとしても、それに基づいた内閣の行為について、憲法裁判所が憲法適合性を審査できるのだ。安倍首相が集団的自衛権の行使を認めても、憲法裁判所が否定するかもしれない。これが本来の統治機構の在り方だ。

僕は集団的自衛権の行使は認めるべきだという立場。ただし、憲法裁判所のチェックは必要だと思う。政治の判断が、内閣法制局でダメとストップをかけられのは反対。憲法裁判所にストップをかけられるのは賛成。もし憲法裁判所にストップをかけられたら、それこそ憲法改正しかない。

立憲主義を担保する国の憲法の番人の役割を、普通の裁判所にやらせているのは、アメリカと日本ぐらいだ。こちらが例外。アメリカがなぜできたのかというと、連邦最高裁が普通の裁判所とはやはり違うから。それでもやはり本筋ではないだろう。本筋で行けば、普通の裁判所ではない憲法裁判所を作るべき。

国の憲法の番人の役割を、内閣法制局に負わせるのはもう止めなければならない。かといって、日本国憲法が規定する通常裁判所である最高裁判所にその役割を担わせるのも無理がある。ゆえに憲法裁判所を設置すべきだ。と言いつつ、今の日本国憲法で憲法裁判所は設置できないのか気になったので調べた。

司法試験の勉強からだいぶ時間が経つので忘れてしまったが、どうやら諸説あるようだ。憲法でダイレクトに憲法裁判所を設置するのがきれいな形。しかし憲法81条の解釈として、今の最高裁判所が憲法裁判所のように振舞うことも可能なようだ。

そのためには規定が必要。それを法律でやるのか最高裁規則でやるのか。法律でやるとなると、国会から、最高裁が憲法裁判所の役割の委任を受けたことになる。最高裁規則でやれば、元来最高裁が憲法裁判所の役割を担えるという解釈。そしてこの憲法81条の解釈も、最高裁が最終責任者。

ということは、現在の最高裁が、これからは、具体的事件を前提とした付随的審査制ではなく事件がなくても憲法適合性を審査すると宣言すれば、現行日本国憲法の下でも憲法裁判所が誕生すると言うことか。そうすれば安倍首相がどんな憲法解釈をしたとしても、それをチェックするのが最高裁となる。

うーん、これには違和感を覚える。今の司法の仕組みからして、政治に対峙できる憲法の番人にはなり切れないだろう。裁判所法をはじめありとあらゆる法体系の組み立て直しが必要。やはりこのような統治機構を定めるのが憲法なのだから、憲法裁判所は憲法に明記すべきなのだろう。
(橋下市長 twilogより)

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