前回・前々回の投稿
橋下氏「(バニラエア問題)バカな自称インテリが木島さんをクレーマー呼ばわりしているのは、ほんとバカ丸出し」6/29のツイート
橋下氏「今村大臣は失言で罷免。稲田大臣の続投は明らかに公平性に反する」6/30のツイートで
「事前連絡があればきちんと対応できる。今回は事前連絡がなかったので対応ができない」というのであれば、木島氏の非が強くなる。しかし「対応するのにほんのちょっとの準備(ストレッチャー)でいいのに事前連絡があっても対応不可」ということであればバニラの非が強くなる。今回は後者の模様。
と、ツイートしていた橋下さん
しかし、木島氏がネットテレビに出演し、その発言が物議をかもしています・・・
(橋下徹氏twilogより引用)
(バニラエアライン問題)
①木島氏の言動は過激。猛批判も食らうだろう。ただ僕は「切磋琢磨を重視。その代り切磋琢磨の土俵に上がれない人には徹底サポート」という政治信条で政治をやってきた。木島氏は土俵に這い上がって自立を目指している。②違法行為は許されないが本来徹底サポートが必要かもしれない人が必死に土俵に上がって自立を目指しているなら多少の過激さがあってもいいじゃないか。ただ応援の声が完全になくなってしまうと土俵から降ろされるので今後はそこは注意して欲しい。
色々な見方が出来る話・・・
木島氏
「自分の個性を活かして仕事をしているだけなので、別にプロ障害者でもいいかなと思いますけど」
プロ障がい者
確かに
自分の障がいを使って笑いを取る、お笑い芸人もいる
乙武氏も、プロ障がい者の部分もある
ただ違うのは、木島氏の活動は、やり過ぎると
企業もそうだが、障がいのある方も、(さらに詳細な事前連絡が求められるなど)負担を増やす可能性がある
橋下さん
「ただ応援の声が完全になくなってしまうと土俵から降ろされるので今後はそこは注意して欲しい。」なのだろう
P.S.
Eテレ「バリバラ」で、この問題取り上げないかな・・・
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コメント
前にもちょっと書いたことがあるが、、、、。
或る時、昔になるが当時大阪梅田キタの料理を出すお店の間内では、で少し話題になった内容だが。
こんなことが参考にはならないかもだが、
昔、と言っても、そう昔でもなくて、バブルの終わるころ。今から30年位以前の大阪キタの繁華街で起きた内容。
或る高級な料理店で、カウンター形式の飲食が出来る料理のお店に、フラッと或る一人の男性が入って来た。
脇には体を支えるべく肢体が不自由を示す杖のような器具を挟んで、それで持ってようやく歩けるレベルの、一寸見ていても普通に誰かの支えが必要だろうという状況で、その男性は少し酔ったような状況で店内に入って来た。
お客として。
誰の付き添いもなく一人で入って来た。
店主は店員にすぐに男性に近づいて身を支えるように告げて店員がそれに従って近づいて手を差し伸べて身をささえ持った途端、その男性はその店員に怒鳴るように言い放った。
【余計なことをするな!俺は一人で歩けるんだ、俺に触るな!】と、
そう言うなりその店員の出した手を払いのけた。
そのシーンを見ていたご主人は、カウンターから回って客席の外回りまで出てきて、その男性に近づき、
【出て行ってください、、、、、、出て行け!】と告げた。
店から出ていくように要求した。
客席にいてた客の一人が、それを見ていて、
【いいじゃあないか、どっか、ひがんでるんだろう!】って、そういうような文言を発した。
当時、新地の界隈で、この話が聞こえてきたことがある。
【あそこの親父はきついなあ】
【いや、あれでいい】
【そうかあ?俺ならどうぞ入ってくださいと、もう一度招き入れて入店させて料理を食べてもらうが】とかいろいろ。
体の不自由な人が言いたいこともわかる。
だが目の前に在る現実もまたその通りだ。
残酷な部分は、家ででも、外ででも、どこででも、現実誰にでも存在する。
世の中が自分らの生活しやすいように出来ていないこと、
体の不自由さで国に面倒を見てもらってるんだろうよという誤解も含んだ世間からの何か蔑む目。
夜の繁華街の【水の世界】では、
総会屋の息のかかった水の女からの流される情報が地下からレジャービルの屋上まで流され、浮き合いするかと思いきや、こんな毛色の違った内容での論争が起きたりもする。
いろんな内容が飛び交い聞こえてくるが、これはそういう中でもちょっと胸の痛い、しかもどちらの立場でもどちらもが痛いなあと、そういういう内容であった。
身体の不自由な方も、国民みんなが普通の常識を持っている者ばかりではないことを現実を踏まえたうえで行動意識認識の度合い、要求の中身、行動も、之も出来る限り可能な限り相手さんが許容しやすい状況をやっぱり作って、自らでもそうやる努力は、これは私は必要だと思っている。
わたしの親族にも一級身体障害の者が存在している。
先天性全盲で、生まれた時からこの世界を一度も見たこともない。
全く見えないので両親が甘やかして其のままで何もできずじまいで育ててしまい、今でも、やれることと言えば自分で好きな音楽を音楽機器をセットして、一日中それを聞くこと、ラジオでの放送を、音楽を聴いて楽しむぐらいしかできていない。
親がそれでもいいということでそうしてきたようだ。
或る意味社会と繋がる部分は彼には音楽の音色とラジオからの声しかない.
私は早い段階から
【親は先に死ぬから、何かを専門の部分で矯正でもして今の段階から出来る部分を探して勉強させるべき】とその子が10代のころから言い続けてきたが、
親族でも無理な者は無理で聞く耳など一切持っていなかった。
そういう私をその全盲の子の両親は、結果私が関わることを迷惑がってきて、煙たがって、結局その親族とは今ではもうほぼ会うことも無いような遠縁になってしまっている。父親が先にもう死に、母親しか彼には残っていない。
もう結構な歳になってるだろうと思うが。
ここを見てついつい以前の事でのちょっと思い出したが。
肢体不自由という場合の、車椅子での行動、バリアフリーの有無、また増設での敷設、支えるボランティアの意識の開発、そういうそれに対応する内容の公的な補助金の拡大、もう限りなく広がっていく。
予算も内容でやっぱり限度がある。
すべてやってくれということも無理がある。
予算はいろいろな困ってる人に公平にという趣旨がある。
難病の人もおれば癌他治したい医療の先端治療技術、之にも予算はかかる。
どっちに予算をと言ったときには、やっぱり、すぐに命にというほうにどうしても予算配分は向くだろう。
ここらもやっぱり皆が理解もしないといけない。
政治と行政のむつかしさは、先のことも考えて行かないといけないが、現実起きていることにも予算での公的に配分の采配の決定をこれをしなければならん。
政治が何でもしてくれるわけではないということも、国民はきちんと知るべきだ。
都議会選挙での自民、公明、民進党、共産党ら、
こいつらの演説で聞いてると、もう政治で何でもしてくれるまがいに伝えている。
でもこいつらの言うこんなことは、
★政治でもこいつらの手ではこんなこと、絶対にできるはずがない。
さもやれるが様に言ってるが、自民も公明も民進、共産党も、
こいつらそれなら今までにやっとけよ!って。
で濃きもしないことを平気で骨らやります遣りますって。
振り込め詐欺師でも、一度しか裏切らないのに、こいつらいったい何度嘘で騙くらかすんだよ!って。
詐欺師のプロ以上だぜよ!
健やかで丈夫な者は、率先して弱きものを助けよは確かにそうだが、
やっぱりいろいろと複雑なその折その折の状況もあるし、橋下さんが言われる通り、その人自身の、【その状況】というのが、これが重要であり、周りが感じる状況、そういうものが訴えていくその姿勢等が今後大きく左右されだすのでは。
梅田キタ新地で起きていたああいう内容も、実はこういう内容にもあるということである。
おせっかいだと取る人もおれば、手を貸すとそれを喜ぶ人も居てるだろう。
手を貸す側にも、色々と状況がある。
つまりは、こういう内容にはやっぱり最後は現場のその時の微妙な雰囲気というか、当事者同士の人間性の伝え方、伝わり方、受けとり方、これが意味を創る重要部分である。
そうかといって全部用意しておけ、満足できる対応が可能なように全て準備しとけというこの要求も、これは所詮やっぱり無理がある。
これはちょっと無謀な要求と思える。
幾ら身体障碍者と言えども。
する方も、される方もやっぱり最後はその人ら同士のそのタイミングの意識次第である。互いの人柄での状況というものもあり、実はここが一番大事な部分だろう。
体の不自由さを支えるということの大変さと、この事をまずはみんなで理解をし、
される側もそこは感じるべきである。
当たり前だとは少なくとも思って欲しくないと思うが。
そうかといって粗末になどということはさらさら考えたこともない。
難しいその許容部分の度合いのレベルが存在する。
これに付け加えるのもちょっとと思ったが、敢えて書いておきたい。
肢体が何かの原因で不自由とか、身体の部分でどこかうまく機能しないとか、例えば認知症などに於いても出もその内容を抱えた方の中でもそれぞれで想いが違っていてこのままですべて面倒を他人に見てもらいたいと思う者もいてればいや自分で出来ることは自分の手で出来るだけやりたい人の手助けをできるだけ減らしたいと思う人も居rてるしまた人の手を借りたくてもその人の手さえも存在していなくて日々困っておられる人も全国にはものすごい数存在する。
何かで身体的にそういう状況に追い込まれ日々を迫られた方たちの心情を思うと我々健常者にすれば、彼らに向ける目線は、人にはいろいろといてるし、本当にいろいろ様々だというのが現実である。
こういう人に常に良く言われることが、
【何か夢をもって、自分で出来る何かを見つけてそれに向かって人生を何とか頑張ってほしい】という言葉かけが非常に多い。
デモこれこそ健常者が目線で言う文言であることが私のこの親族のこの全盲の子の、このことでよくわかった。
我々が見ている目線とこういう状況に置かれている人たちの見ている目線が実は違うようである。
単純に思っていた私の発していた言葉は逆にそのご家族にすれば或る意味残酷に聞こえていたのかも。
【ほっておいてくれ!どうせお前になどわかるはずもない】とそう言いたかったのだろう。料理店を訪れたその男性も、もしかすると日頃から周りの人に対して常にそう思って生きてきているのかも。
日本という社会は、或る意味親切なようで何かこういう境遇の人には、自分が近づいたり直接ものを言うのがはばかれるだとか、それがむしろいいんだというこういう認識教えのようなものが存在していた。
なにか遠慮というものが有るのか(これは日本人独特の意識感覚)そっと見ているという風潮がある。
これがむしろそれの方がいいというようなそういう教え方で来た。
これが今の日本の現実迫られている身体障碍者へのフォローの仕方に問題が現れている。本当は直接かかわって直にみんなが関わるべきもんだというそういう社会認識に今移行しかかってきている分岐点のような状況に見える。
日本人はそういう素型の肩を見ても目をそらしがちである。
じっと見つめることが、之こそがそれが何か相手に失礼だと思いがちな民族である。
それで何十年、何百年と来て、今急にここでそのことを突き付けられる時代が訪れた。
戸惑いと、まだどうしたらいいかを迷ってる人も多いだろう。
政治が出来ることは取りあえずは構造でそれを解決できる政策、つまり予算をきちんと確保してそこから社会で学校でみんなで考えるべき時代に来ている。
日本人は、まだそういうことに世界の欧州のような障碍者の傍にまで近づくという事にまでは気持ちも行動でもまだ成れていない状況なのだ。
だから予算は付けるという所まではきだしてきている。
後は個別ごとでのフォローのソフトの部分を、ここをどうやって意識改革でのフォローをしていくのか、
彼らの望むものが一体何かを個別ごとで探っていくとてつもないかつて日本が経験wしたことない国全体で考えていく時代に入ったということだろう。
現状存在しているそれぞれのそういう内容での支援の施設は、まだ表でのフォローにしかまだ届いていないように見える。
大事なのは子供のころから学校でも、家庭でも家族でも、また企業もこれから大変だろうが、みんなが自分の事という受け取りでやっていくしかないだろう。
大変だがでもこれはどこの人類もがいずれ抱える内容であり、人間が生きていくうえでの必要不可欠な部分だ。
全盲の子のご両親に対しては、私はいかにも浅はかな思い付きだけの発言をしていたと今は反省している。先の事しか語って告げられなかった。現状不安が同居している両親全盲の子に対して、今日一日、今まさに今日の事から聞いてほしいことがあっただろうにと、本当に申し訳なかったと。
一つの夢を無くしたら、また新しい次の夢を見つければいいというこの単純な発想だけで解決できるほど、軽いものではないんだと私自身が思い知らされる部分がある。
でも目指すものが夢がかなわなくなっても、それが目の前で消えて行ったとしても、また新しいものを探し、新しい夢はやっぱり持っていただきたいとは思っているが。
そういう社会、そういう国を作りたいというのが、
【日本維新の会】の信条にもつながる。
良い暮らしというものを求めるのが幸せとまで言えない。
★本来の、
人間が生きていける、どういう立場の人も普通に人間で生きて行ける国家、社会、
これを日本維新の会は都議選でも、都民に国民に向けて、訴えていただきたい。
橋下さん松井さんがこの維新を結党した時のこの信条を全面で表に出して。