9/16 橋下氏ツイッター 「やっと新聞が教育行政の問題点について本格的に腰を上げてくれた…しかし朝日は大混乱。グダグダになっている。」

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(引用)

9月13日毎日新聞社説(記事リンク)。文楽界の構造上の問題点についてやっと触れてくれた。これまでメディア、有識者、文化人は文化大切、文楽大切しか言わなかった。大切なのは百も承知だ。補助金制度のどこに問題があるのか。税の使われ方に問題があれば正していくのが政治の役割だ。

僕はいつでも話し合いを持つと言っている。ところが文楽協会側が、公開での話し合いを拒む。これでは一致点の探りようがない。メディアはいつも重要なことはオープンでやれと言う。まさか毎日新聞は、文楽だけはクローズ、密室で話を付けろとは言わないよね。

9月16日朝日新聞1面、2面(「続きを読む」以下に記載)。教育行政に関する記事。やっと新聞が教育行政の問題点について本格的に腰を上げてくれた。これはテレビでは無理な話題。テレビだと、教育への不当政治介入!で終わってしまう。新聞でしっかりと検証してもらいたい。しかし朝日は大混乱。グダグダになっている。

これは朝日が、教育には政治が介入してはならない=政治的中立性を金科玉条として、このイデオロギーを死守することに全エネルギーを注いできたから。君が代起立斉唱条例のときと思考構造が同じ。教育行政についても僕は組織マネジメントの観点で考えている。権限と責任の明確化と政治と行政の役割分担

教育と言っても、全てを教員が仕切れるわけがない。政治と言っても、それは住民レベル、首長レベル、国レベルで様々な政治がある。また政治の関与と言っても、関与のレベルも様々だ。このような現実を無視して、政治的中立性を絶対視すると、9月16日朝日のようにグダグダの論理になる。

文部科学大臣(政治家)、文部科学省(行政)、地方首長、教育委員会、学校、住民。教育行政には様々な関与者がいる。僕は、それぞれの関与者の権限と責任を明確化し、役割分担をしっかりやっていこうという立場。

政治権力が教育内容に不当介入して権力崇拝させるのは絶対に阻止しなければならない。しかし政治が教育に一切関与しないなんてあり得ないし、現実様々なレベルで関与している。これは程度問題だ。ところが少しでも関与しようとすると政治の不当介入!と来る。これまでの朝日のように。

しかしそもそも文部科学大臣は、堂々たる政治家だ。そうなると文部科学省自体が政治そのもの。そして全国の教育委員会は文部科学省に右に倣え。だから世間で言われる教育の政治的中立性は、地方の政治には従うな!中央の政治に従え!という意味でしかない。政治的中立性は中央集権の言い換えに過ぎない

僕は首長が教育行政の全てを仕切るべきとは言っていない。大きな目標や制度全般は首長が定めるべき。政治が作った制度の下で、政治が定めた大きな目標を達成する方法を考えるのが教育委員会。そして個々の学校運営は校長が権限と責任を持ち、保護者や生徒にも一定の関与を求める。これが維新の会の考え

教育委員会や学校現場は、教育実践のプロだ。だから教育実践は教育委員会や学校現場の専権だろう。しかし、教育の分野も飛び越えて大きな総合的判断のもとに大目標を定めるのはやはり政治の責任だ。また制度自体の枠組みを変えるのも教育の専門家にはできない。ここは政治の出番。

さらに学校運営に関しては、校長が中心になるが、ここに保護者や生徒も関与させるべきだろう。今は、文科省をピラミッドの頂点として全国の教育行政が仕切られている。ゆとり教育か脱ゆとりか、全ては文部科学官僚の考え次第。もちろん国には国の役割がある。それは全国の最低水準を定めること。

その水準を超える部分は、各地方に任せれば良い。また全国的な水準維持のために、水準調査などをするのも国の役割だ。全国学力テストのようなもの。国の役割がはっきりしていないから、学力テストの実施もグダグダになっている。教育の政治的中立性!とういうイデオロギーでは何も解決しない。

朝日は、記事にある通り、「政治権力が教育を左右してはいけない」というイデオロギーの呪縛にかかっている。そこで思考停止。僕は政治権力で教育を左右するつもりはないし、議会・選挙・メディアのチェックも受ける。イデオロギーではなく組織マネジメント。教育行政が適切に実行されるための組織は?

国・地方、政治・行政、首長・教育委員会・学校・保護者のそれぞれの権限と責任、役割分担をどのようにすればいいのか。今はまったく整理されていない。その整理の試みを大阪でやっている。朝日はそれを政治権力の介入ととられているが、じゃあ誰がやる?教育内容の改正ではなく、制度の改正だ。

制度の改正まで、教育の専門家、またレイマンコントロールの素人がやれと言うのか。無茶苦茶な話だ。制度改革は政治にしかできない。その実施は、教育の専門家、教育委員会や学校現場での役割だろう。制度改正にはもちろん、教育現場の意見を聴く。しかし最後に決定するのは政治だ。

政治は住民に責任を負う。このときの責任は、選挙で交代させられることだ。教育現場には交代がない。この特徴からそれぞれの役割が規定される。住民のときどきの判断に委ねていい部分と、委ねてはダメな部分。ここを仕訳できていないのが今の教育行政。

全てを教育現場に委ねよ、首長が口を出すな、教育の継続性を重視せよと世間知らずの学者は言うが、それは教育現場の都合の良い制度をそのまま認めよということと同義だというこに気付いていない。文科省や教育委員会だけでは教育を仕切れる時代ではなくなった。朝日はこの現実を認めるところから出発だ

役割分担については様々な議論があるだろう。ここに正解はない。大いに議論したらいい。しかし教育委員会が全てを仕切る。首長は一切口を出すな、そんなこれまでの朝日のイデオロギーでは何も課題解決につながらない。国・地方、政治・行政、首長・教育委員会・学校・保護者の役割分担。

国は最低水準を定め、その水準を維持。地方は地方の実情に合わせた水準。首長は大きな目標設定や制度全般の改正。教育委員会や学校が、その制度の下で首長の定める大きな目標を達成するために教育実践。学校運営は校長が権限・責任を持つが、保護者の一定の関与。

この大きな枠組みで権限責任を整理し、実践しようとしているのが大阪の試み。朝日も、その実態をきちんと記事にしているが、それが悪いことだと決めつけている。自分たちの、教育に政治権力は口を出すな!というイデオロギーのために。イデオロギーから離れて、組織論で検証、批判してもらいたい。

僕の考えは、一定の水準、目標を前提に、各学校が自律的マネジメントをする姿。各学校には保護者も関与する。まったくの無秩序はダメだから、国と首長が一定の枠をはめる。維新の会の教育関連条例に関しては、首長が教育現場を支配する!と散々言われたけど、全く違う。

この条例は、学校・保護者主体に改めようと言う趣旨。今の教育行政こそ、文部科学省の紙切れ一枚で、全国の教育委員会がざざーっと動く仕組み。この方がよっぽど怖い。こういう実態には朝日はまったく無批判。地方の首長より、文部官僚の方が信頼できると言うことだろうか。

また文科大臣が政治家だと言うことを忘れている。そもそも教育行政は政治家が関与しているのだ。国会議員はよくて地方の首長はダメと言うことか?地方の首長が全て仕切ると言うわけではない。役割分担だ。大きな目標については地方の首長が権限と責任を持つべき。教育実践は教委や学校。保護者も関与。
(橋下氏 twilogより)

(引用)

政治主導、揺らぐ教委〈教育あしたへ〉

■仕切るのは誰だ:上

 2学期を迎え、大阪府南部の中学校長は落ち着かない。原因は、来年度に始まる教員評価制度のことだ。

 「教育にユーザー視点を入れる」という大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)の意向で、夏休み中に突然、子や保護者の授業アンケートの結果を査定に反映すると決まった。忙しい親がどれほど授業を参観できるのか。教員のあいだにも不安や不満を感じる。

 大阪市の中学校の校長は、保護者に不適格教員排除の申し立て権を与える新たな仕組みが心配だ。排除の申し立てを受けるのも保護者。トラブルの種になりはしないか。

 中2の息子を持つ大阪府豊中市の女性は、3月に決まった公立高の学区撤廃の影響が気になってならない。息子が目指す高校は交通の便がよく教育の質も高い。学区が広がれば倍率が上がりそうだ。「よりによって、なぜいま急に……」

 猛スピードで変わる大阪の教育。その原動力が、大阪維新の会主導で成立した「教育目標は首長が決める」条例だ。核心は教育委員会制度の否定である。

 教育委員会は、政治と教育が一体となって戦争へと突き進んだ反省から、政治的中立と多様な民意の反映を目的に誕生した。教育に関することは複数の住民代表が話し合いで決め、政治権力が教育を左右できない仕組みだ。橋下氏はそこにいらだった。「選挙で選ばれた首長が責任を持つべきだ」と条例制定を公約に大阪ダブル選を戦い、勝つ。

 その後9カ月の間に、「選択・自己責任・切磋琢磨(せっさたくま)」を掲げる維新の会は、学校選択制、定員割れが続く学校の再編整備など、学校や教師を評価にさらして淘汰(とうた)する改革を次々実現した。大阪は「教委なき世界」への社会実験場となっている。

■教委はかやの外だった

 7月、高松市の全国知事会議。大津のいじめ事件をめぐり教育委員会批判が噴き出した。「今の体制ではだめだという表れ」(佐賀県知事)、「外の空気を入れるべきだ」(大分県知事)

 大津では市教委の無策ぶりが批判をあびていた。アンケートに「自殺の練習をさせられていた」など深刻な記述があったのに、公表せず調査を打ち切ったとわかったためだ。

 現実は無策以前に、教委をとりしきるはずの教育委員たちは「かやの外」に置かれていた。問題を処理したのは、本来は教委の指示で動くはずの事務局。事務局トップの教育長以外の4人の委員は、報道で「自殺の練習」の記述を初めて知り驚いたのだという。

 教育委員は、教育長の他は非常勤。別に本業を持ち専門知識もないため、これまでも「事務局の追認機関」と批判を浴びてきた。一昨年度の全国調査では、会議はおおむね月1、2回。住民の関心も薄く「1年間傍聴者ゼロ」の市町村は7割を超えた。

 そんな教委の頭越しに改革を進める大阪方式は、全国に飛び火し始めている。

 7月、愛知県の大村秀章知事は有識者の教育懇談会で高校入試改革をすすめると宣言。「選挙で選ばれた首長が教育に責任を持つのは当然。教委が従わないなら予算はつけない」

 静岡県の川勝平太知事も6月、「教育行政のあり方検討会」を設立。「教委の存廃を含めて議論するのは自由」。鳥取県の平井伸治知事は3月、「不登校を全国平均未満に」など知事選のマニフェストを実現するよう県教委と協約を結んだ。

 教委の独立を重視する首長もいる。教育長出身の門川大作京都市長。「対立点を際だたせ有権者に選択してもらうのが政治。でも教育は一方が正しくて一方が間違いとは言えない」

 そんな声を尻目に、大阪はさらに先を走る。8月末、市の教育指針を話しあう有識者会議で橋下徹市長は「文科省の教育行政を前提としない」と踏み込んだ。「6・3・3制や学校週5日制は本当にこれでいいのか。今までの制度を変えるチャレンジが必要だ」(編集委員・西見誠一)

■国・学校も権限綱引き

 教育委員会の議論は国政レベルでも高まっている。 維新の会は国政に向けた政策集「維新八策」で「教委制度の廃止」を掲げた。自治体の中で首長と教委という「ヨコの関係」を見直し、首長に権限をと主張する。

 だが大津の事件後、文部科学省と地方教委の「タテの関係」で国の指導強化を求める声が目立ってきた。

 8月24日、衆院文科委員会。下村博文・自民党文科部会長が平野博文文科相に問うた。「大津市教委に対応を任せるのは難しい。国が対処する必要がある」

 義家弘介・部会長代理は文科相が教委に是正指示をしたことがない点を問題視。「伝家の宝刀が抜けず、しかもさびている」

 大阪の条例に対し、部会のプロジェクトチームは「慎重な検討が必要」との見解だ。首長が交代するたびに教育が不安定になる可能性もあるためという。

 国の統制強化では立ち行かないとの主張もある。民主党のマニフェストや政策集は、首長が教育行政を担い、学校運営に住民が関わるコミュニティ・スクールを増やすとする。元文科副大臣の鈴木寛・党政策調査会副会長は「保護者や住民の声や工夫をボトムアップで生かすのが望ましい」。

 首都大学東京大学院の伊藤正次教授(行政学)は、教委の改革論は「教委活性化モデル」に、首長主導の「地方自治モデル」、学校に権限をゆだねる「学校自治モデル」が加わったとみる。地方分権と規制緩和の影響だ。

 背景には国が引っ張った経済成長の終焉(しゅうえん)がある。望ましい教育の価値観が多様化。日教組と旧文部省の対立も崩れ、火種となる教育問題を避けてきた首長らも口を出しやすくなった。

 伊藤教授は「教育界内部の専門家が仕切る時代から、子や保護者、地域の声をどう生かすかが問われる時代になった」と話す。(編集委員・氏岡真弓、花野雄太)
(朝日新聞 9/16)

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