7/29朝日新聞の原発事故に関する長期連載「プロメテウスの罠」より
(引用)
原発城下町:10 入学支度金5万円
前大熊町長の志賀秀朗(81)は1931年、旧熊町(くままち)村の農家の長男として生まれた。のちに福島第一原発が建つ場所は軍の飛行場だった。練習用の赤い飛行機が飛ぶのを眺めて育った。
一帯は貧しかった。農家では食えず、男たちは農閑期には東京に出稼ぎに行った。
54年、合併で大熊町が誕生する。父は農業のかたわら、町の収入役を務めていた。職員給与や業者への支払いで現金が足りなくなると、「話はつけてあるから」と町外の商人へ借りに行くよう志賀に命じた。
志賀は20歳代だった。農業の合間に125ccのバイクにまたがって受け取りに行った。ある時は15万円、ある時は10万円。町職員の月給が1万円ぐらいのころだった。
原発を造るため、64年に東京電力が福島調査所をつくった。志賀はその臨時職員になった。2年前に町長になった父に、「これからは給料がもらえる職に就け」と勧められた。
まもなく正社員になる試験があった。簡単な筆記と面接。面接では志賀に6人の子どもがいることが話題になった。志賀が「自然に逆らわないので」と答えると、面接官は大笑いした。東電の正社員になった。
71年、第一原発の営業運転が始まる。農家は次々に原発関連の仕事に就き、出稼ぎをする人はいなくなった。県内でも貧しいとみられていた大熊は活気づいた。
87年、東電を退社して町長選に出馬し、当選した。父が町長だったこともあり、周りから推された。「べつに東電から町長になれといわれたわけではない」と振り返る。
町長になると、交付金や東電の税金など「原発マネー」の恩恵が、平等に行き渡るよう気を配った。
小学校に入学する児童には支度金として5万円を支給。
医療費は中学3年まで無料。
文化センターを建て、コンサートのチケット代は半額を補助。
下水道料金はよそのほぼ半分。
「避難先で町民は『請求書が間違ってるんじゃないか』って思うらしい」と志賀は笑う。それだけ大熊の公共料金が安く、暮らしやすかったということだ。
先の展望は見えないが、志賀には東電を責める気持ちはない。
「復興の資金を考えたら一企業を責めてどうなるものでもない。俺が総理大臣なら国民に『未曽有の災害なので、みなさんに税金でお願いします』というのにな」
(朝日新聞 7/29)