引用
RT @inosenaoki: 大飯原発再稼働について、橋下市長は電力不足をどうするつもりなのか、ある新聞記者が僕に問うので、では数人の閣僚が第3者委員会の客観的な意見なしで決めていいのかい、どさくさの意思決定に疑問持たない新聞こそおかしいのではないか、『昭和16年夏の敗戦』といっしょだよ、と返したら納得。
国民を二分するほどの大激論のある論点に対して、どのように結論を得るか。それは手順を踏むことである。手続きをしっかりと踏むことである。これが統治である。教科書に書いていない正解の探り方。それは手続きを踏む。これが民主主義の叡智である。
ケーキを2人で分ける。完全に真っ二つに分けることなどできない。ではどうするか?ナイフを入れた者が後からとるとすれば良い。完全に真っ二つに分けることに労力を費やすのではなく、手続きで解決する。この手続きの枠を作り、手続きを進めて解を探していく。これが統治である。
原子力安全委員会の斑目委員長がコメントを出したようだ(テレビ報道で知ったレベル。アナウンサーのナレーションで本人の顔出しはしていない)。「原子力安全委員会は法令上コメントを出す役割はない」とのこと。これで決定的だ。民主党政権は大飯の科学的安全性について隠そうとしている。
定期検査後の再稼働に原子力安全委員会の安全コメントは現行法上不要だ。ただそれは福島の原発事故が発生する前の平時の手続き。定期検査が目的だから定期検査だけで良い。民主党政権は完全に統治を誤った。今大飯に求められているのは定期検査ではない。安全性なのだ。定期検査と安全性は全く異なる
民主党政権は、大飯の原発を定期検査の手続きで再稼働している。政権(保安院)が確認したのは定期検査を確認したまでだ。定期検査については、安全委員会はコメントしなくても良い。ところが定期検査の手続きを踏んだだけなのに、民主党政権は安全宣言をした。完全に国民を騙した。
安全委員会は法令上、定期検査についてコメントをする立場にはない。ということは民主党政権は、大飯の定期検査をやっただけだ。これが今回の安全委員会のコメントではっきりとした。にもかかわらず政権は安全宣言。危険だ。これはもはや統治ではない。
有識者としては原発再稼働については色々意見があるだろう。しかし為政者として統治をするには手順を踏むしかない。正解はどこにも書いていない。手順を踏むことが正解に通じると信じるのが為政者だ。福島の事故後の大飯の再稼働は、定期検査手続きではない。安全性確認手続きに変わった。
現行法令に規定がなくても、我が国の最高権威である原子力安全委員会の安全コメントを飛ばすことは絶対にできない。この手続きを踏めば、正解に一歩近づく。安全委が安全宣言をすれば(もちろんもの凄い突っ込みがあるがそれに論理的に耐え切って)再稼働の政治的決定は一旦結着が付く。
もし安全委員会が安全宣言ができないとなると、政権はそれでも再稼働を決定する場合にはとてつもない説明責任を負う。安全性の立証ではなく、必要性の立証。ここで電力需給状況のデーターや電力供給体制の変革について死に物狂いで説明をしなければならなくなる。この過程で正解にまた一歩近づく。
このように手続きを踏みながら見えない正解に近付けていくのが統治だ。有識者は自分の意見を述べるだけで良いが、民主主義の世の統治となると国民の支持が必要。手順を外すと確実に支持がなくなる。日本国民は賢明だ。安全委員会は安全を宣言できない。はっきりした。政権は国民を騙している。
政権は、安全宣言するのではなく、堂々と必要性について訴えかけるべきだ。もうばれている。政権が安全宣言した安全は国民が考えているものとは全く異なる。政権が確認したのは福島原発と同様の事故は起こさないというレベルの安全なのだ。国民はそれ以上の安全を求めている。国民はバカじゃない。
政権が再稼働を訴えるなら、安全だと誤魔化すべきではない。必要性を堂々と死に物狂いで訴えるべきだ。それに対する激しい反論とのぶつかり合いの過程で電力供給体制があるべき姿に変わる一歩に繋がる。実体的真実はそこに転がっているものではない。激しい激論の中から浮かび上がってくるのである。
教科書に載っていない、先例のない正解を見つけるためには、激しい議論をするしかない。手続きによって真実を見つける。その舞台・環境を作ることが統治であり為政者の責任だ。問題が重大で大きくなればなるほど、激しい激論の舞台を作らなければならない。日本における原発問題はそれくらいの問題だ。
posted at 23:24:57
(橋下氏 twilogより)