1/3橋下市長ツイッター「すかして評論する連中よりも、ぶさいくにもがき、あがく連中が評価される社会を目指したいね。」

記事をシェアして頂けると嬉しいです

新年にふさわしい、つぶやき・・・
橋下さんの政治哲学というか信条というか・・・そのような内容です。

橋下市長 twilogより引用)
政治家なんて、たかだか選挙で選ばれた存在。スーパーマンじゃないんで、何でも100%完璧にできるわけではない。日本国民の教育レベルから考えれば、政治家よりも有権者の方が優秀なのは当たり前。それでも政治家は権限を持っているので、以前よりましにすることはできる。

新年早々「悪いことが起こる」と、時間をかけてたいそうな論を展開している学者がいるが、政治家と学者、評論家の決定的な違いは、世の中のここが問題だなと感じたときに、それを実際に正すかどうか。学者、評論家の類は、言うだけ。政治家はたとえわずかであっても改善することが役割だ。

悪いことを予測したなら、それを少しでも良くしようと、あがくのか、それとも嫌味十分に指摘するだけなのか。日本がダメになったのは、言うだけの面々が偉そうにできる社会になったから。これは民主主義が成熟し、教育レベルが高度化した国の宿命だね。とにかく勿体付けて言うだけの奴が偉そうにできる

本来は、少しでも改善し、悪いと思ったことを正す面々が評価される社会にならないといけないよね。世の中なんて常に改善の連続をしなければ悪い方に行く。今年は悪いことが起きるとたいそうに論じるまでもない。悪い方に行くなら、そうならないように、少しでももがき、あがく。

そしてもがき、あがくことが評価される社会じゃないと、誰もやらなくなる。国民全員が評論家的になったら国は沈没だ。国民が少しでももがき、あがくことの積み重ねで、以前よりもましな社会になる。すかして評論する連中よりも、ぶさいくにもがき、あがく連中が評価される社会を目指したいね。

それと新聞社はいつまで論理矛盾なことをやるんだろ。これじゃ、新聞の衰退を止められないよ。新聞社はすぐに数名の紙面委員会なるものを作って、そこで議論していることに酔いしれる。わずか4人や5人の委員で。大阪維新の会だっていつも10人以上で議論しているよ。
(続く…)

(続き)
新聞社は、政治に向かっては、熟議だ、幅広い議論が必要だと叫び続ける。ところが、たかだか新聞社一社の在り方についてでさえ、幅広い熟議をしない。わずか4名程度の議論で、民主主義を実践した気になっている。だいたいその人選はどうやってやっているんだ?社の好みだろ。

僕が何かすれば、万人の声を聞け、有権者と対話しろ、と批判する新聞社ほど、数人の何とか委員会の議論を絶対視する。笑い話かよ。そういう新聞が民意とかけ離れていくのは必然だ。新聞が民主主義の根幹と言うなら、わずか数名の委員会で議論するんじゃなくて有権者の意見を広く汲む仕組みを考えろ。

朝日新聞のコラムに、僕が「選挙至上主義」だといつものように書かれていた。僕は話で解決することと選挙で解決することを分けている。話で解決できないことは選挙で解決するしかない。それしか民主主義を実践する方法は見当たらない。政治が少数者の意見に配慮するのは当たり前。

ただし少数者の意見のみで政治をやったらそれは政治ではない。日本の統治機構は、多数の意思を反映するのが政治・行政、少数者の権利を守るのは司法、となっている。選挙で選ばれた我々が少数者の意見だけで政治をやったら選挙の意味がなくなる。だからこそ少数者の権利保障は司法だとの割り切りがいる

また価値観が多様化した社会になればなるほど、物事は選挙で決するしかない。僕が選ばれ、大阪維新の会が選ばれたとしても、全てに信任を受けたわけではないことは分かっている。でも、何に信任を受け、何が信任されなかったなんて判断できるわけがない。

そこを朝日新聞をはじめ多くのメディア、特に学者、評論家は、自分たちの意見こそが絶対だという前提で上から目線で主張する。そういう意見には、こちらもそれに合わせた態度で臨む。政治家といっても普通の人間だ。全ての事象について何が正しいのかなんて分かるわけがない。

朝日のコラムの人は、君が代起立斉唱条例についてお気に召さなかったらしい。そういう意見もあるだろう。でもこの条例に賛成している人も多くいる。日本は多様な社会だ。素晴らしい。ただ多様な価値観を認めれば認めるほど、最後は選挙で決めざるを得ない。

多様な価値観を認めることと、選挙で決めることはワンセットだ。多様な価値観を認めなければ選挙なんて不要。それこそ独裁者がすべてを決めれば良い。僕らは論説委員や学者、評論家とは違う。言うだけでは仕事にならない。実際に改善しなければ存在意義がない。決定し実行しなければならない。

多様な価値観の社会で、議論のある課題について決定し、実行しようと思えば、最後は選挙というシステムに拠らざるを得ない。一度信任を与えた政治家の判断が間違っているとなれば次の選挙で落とせばいい。多様な価値観を認めれば認めるほど選挙を重視しなければならない。

選挙至上主義=話し合いの否定=反民主主義というロジックを構築する者が、メディアや学者、評論家に多い。それは民主主義を実践したことがないからだ。日本にとって必要なのは、民主主義を実践した論説委員や学者、評論家だ。この点の人材移動が日本は乏しすぎる。

論説委員も記者も、学者も、評論家も皆臆病で、政治家にならない。すかして、俺は政治に興味はないと言う。政治を評論することで飯を食っている輩に限ってそのように言う。野党が、与党を経験することで、与党たるものがどういうものかを知り、野党の振る舞いが変わる。これが政権交代の意義だ。

今のメディア、評論家、学者は万年野党と同じ。だから本当の批判の仕方、問題点の追及の仕方を知らない。そしてやていることは自己矛盾ばかり。新聞なんていまだに4名ほどの紙面委員会で議論して、それが正しいと思い込んでいる。そしてどんどん民意から離れて、購読者を減らしていく。

メディアや、学者、評論家が、一定期間政治家になって、政治の現実を知り、民主主義の実践を経験し、そしてまた政治を批判する側に立つ。これが政治を良くする最善の方法だとつくづく感じる。それができるような社会システムづくりをすることがまた政治家の役割だと思う。

大阪都構想も100%完璧なものではないだろう。しかし今の大阪府・大阪市と比べてどうなんだ?という議論が全く欠けている。大阪都構想に色々と批判が加えられているが、今の大阪府・大阪市の体制で、大阪の政治行政はどれだけ酷いものになっていたか。そのこととの対比が必要だ。

大阪の政治行政がうまく回っていたなら、僕が政治家になる必要もなかった。大阪都構想を論じる際には、今の大阪府・大阪市の問題点の把握からやらなければならない。大阪都構想は、その改善策だ。政治家は現状維持では意味がない。常に、以前よりもましになることを目指さなければならない。

大阪都構想を批判するなら、これくらいには目を通して欲しい。oneosaka.jp/tokoso/ oneosaka.jp/tokoso/ 政治家だけでなく、国民皆が改善に動く世の中を。言うだけでなく実際に行動する世の中を。そうすれば世の中は必ず良くなる。

これまでの大阪よりも少しでも良くしたいと改善に動いている人たちもたくさんいます。文句ばっかり言っていても何も変わりません。応援下さい。ぜひこのサイトをご覧下さい。osaka-future.jp

100%正しいかどうかは分からない。でも、少しでも良くなることを信じて、行動を起こさなければ、現状が変わることは永遠にない。改善を目指すことが社会の構成員としての使命だ。すかして悲観的に評論するよりも、ぶさいくにもがき、あがこう。osaka-future.jp

一度これoneosaka.jp/tokoso/をご覧になって下さい。市役所を適正規模にするのです RT @fukuziya:市長には頭さがります。ただ都構想が具体的に説明なく決まるのは疑問だしどうしても役所が大きくなるときめ細かい対応かできなくなる心配をしてしまいます。
(引用終わり)

関連
1/1橋下市長ツイッター「大阪維新の会の改革がなければ、大阪府は今頃、完全にアウトだったでしょう・・・」
12/31橋下市長ツイッター2「大阪の行政に詳しいと言われているインチキジャーナリストについて」
12/31橋下市長ツイッター「日本の喫緊の課題『東京一極集中の是正』。まずは大阪都構想からだ!」

コメント

  1. 根保孝栄・石塚邦男 より:

    そうですね。ぶざいくでも行動する人を評価する社会ですね。
    評論は、行動する人たちを評価する場でありたいものです。ケチをつける評論は評論ではありません。

  2. delahoyazamora より:

    先日、「自民・民主の国会議員が、学生に『党の理念・目指す社会』を聞かれ、答えに詰まる場面があった」とのニュースを見ました。

    http://news.livedoor.com/article/detail/9637934/

    このニュースを見て、「橋下市長なら『(教育を含め)機会の平等の環境下、皆が切磋琢磨しながらも、そこでうまくいかなかった人たちにはちゃんとセーフティーネットが準備されている社会』等と、即答できそうだなぁ」と考えながら、「そこが普通の議員とは違うんだろうな」との思いを持ちました。

トップへ戻る